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未練 01

last update Last Updated: 2025-03-22 05:02:31

静のマンションには防音設備の整ったピアノ専用の部屋がある。その他にも二部屋あり、荷物を置かせて貰うだけでもありがたいというのに、静は春花に一部屋使って良いと開け放した。

初め遠慮した春花だったが、マンションは職場からさほど遠くない位置にあり通勤にも困らない。下手にリビングに居座るよりも自分の部屋で静かに過ごすことの方が迷惑にならないのではと考えて、春花は次の家が決まるまでありがたくここに住まわせてもらうことにした。

「俺は夕方から外出するけど」

「あ、私も夕方から仕事なの」

「ん、じゃあこれ渡しておくよ」

差し出された手を両手で受ける。と、固くてひんやりとした感触に目を疑った。

「こ、これ……」

「うん。鍵」

「だ、ダメだよ」

「どうして? 鍵がないと困るだろ」

「でも……」

「自由に使っていい。俺は仕事の時間がバラバラだから」

そのまま握らされ、合鍵に良い思い出のない春花は戸惑いながらも大事に受け取る。

無機質なモノなのに、やけに心が騒がしいのはなぜなのか。ぽっと灯る柔らかな温もりはゆっくりと浸透していくように、春花の心を包み込んでいった。

夕方、レッスンのために出勤した春花を見た葉月は眉根を寄せ、手招きしつつ春花を呼びつけた。

「ちょっと山名さん、何だか顔色悪いけど大丈夫?」

指摘され、春花は頬を両手で押さえる。昨晩高志にアパートを追い出されビジネスホテルに泊まったわけなのだが、全くといっていいほど眠ることができなかった。今朝は朝食もそこそこにアパートへ戻り荷物の整理をしていたのだ。昼食もとっていないことに今更ながら気づく。

「あ、ちょっとプライベートでいろいろあって。すみません、仕事に迷惑かけて」

「別に迷惑はかけられてないけど。これからレッスンよね、大丈夫?」

「それは大丈夫です。それより店長、今度レッスン風景を見学したい方がいまして」

「体験レッスン? いつも通りやってくれて構わないわよ。」

「あ、じゃなくて、見学したいのは桐谷静さんなんですけど」

春花の言葉に、葉月は作業中の手を止める。改めて春花と目を合わせると、不思議そうに首を傾げた。

「……え? 桐谷静ってピアニストのじゃないわよね?」

「はい、そのピアニストの」

「……え、山名さんとどういう関係なの?」

「実は高校のときの同級生なんです」

「やだっ! 何でそれを早く言わないのー? もしかして一曲
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  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 09

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  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 08

    ◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 07

    三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。

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